日本再興プロジェクト

遠藤司 皇學館大学准教授責任監修 日本再興プロジェクト の提言型ブログです。 http://www.facebook.com/project.hypnos

 イノベーションとは何であるかと問えば、多くの人は変革を興すことであると答えるだろう。その答えは正しい。しかし的外れである。イノベーションとは「何であるか」と聞かれているのだから、新たな価値を世にもたらすことであると答えたほうが、説明は足りないものの、その真髄により近いように思われる。変革は結果であって、その結果をもたらしたのは価値そのものだからである。イノベーションという結果を生み出すには、新たな価値に目を向けなければならない。また、その価値は社会に変革をもたらすほどであるから、本質的でなければならない。人間の本性、この世の真理、自然に目を向けなければならないのである。生み出されるものは人間の働きによるものであるが、真に価値あるものはこの世の摂理において本質的でなければならないのである。
 アート art という言葉は、もともとラテン語のarsから派生したものであるが、これはテクネー techné の訳語であり、「人工によるもの」という意味である。これに「理」という意味のロゴス logos が組み合わされ、テクノロジーという言葉が形成されたのであるが、いつしかテクネー転じてアートは、「よい技術」ないし「芸術」という意味で使われるようになった。それではここでいう「よさ」とは、何にとってのよさであろうか。おそらく人によって解釈は異なるであろう。アーティスト(芸術家)という人種は、この「よさ」を追求することをライフワークとしている。あるいはまた、「よさ」とは「何であるか」を追求し続けている。したがって多くの場合、そうでない者よりも本質、真髄を求める傾向があるし、その能力に長けている。よいアーティストの表現物が我々の心を動かすのは、それが我々の本性のある部分に合致するからであろう。スティーブ・ジョブズが透明なボディのマッキントッシュを作ろうとしたとき、人から何の意味があるのかと聞かれた。中身が見えることに何の意味があるのかと問われた。ジョブズはこう答えた「ぼくが覗くんだ。」アップル社はときに宗教のように、それを使う者の心を捉える。ジョブズ自身がアーティストであったかどうかはさておき、彼は少なくともアーティストの要素を重視していたからこそ、あのようなスタイルを貫いたのであろう。
 イノベーションは小手先ではない。真髄に迫る力こそがイノベーションを生み出す。したがってイノベーションは第一に「知ること」から生じる。よく知ること、広く知ること、深く知ることの3つがイノベーションにとって重要である。無知の知はその第一歩である。
(文責:遠藤司)

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 イノベーションは「知」の試行錯誤によって生じる。情報や知識を取得することで、人間は世の中を広く、深く「知る」ことが出来る。この質・量が増大すれば、より広く、深く「知る」ことが出来るようになる。「知る」ということは暗記するということではなく、理解するということである。理解は単に記憶に留めるということから離れ、自らのものとすることを含む。自らのものとするには、それを理解するための素地が必要である。ある情報や知識を理解するには、その情報や知識のレベルと種類に対応した素地が必要になる。そのため一つには教養が必要になる。個々の教養は個々の積み重ねによって醸成される。その過程において人間の知性は育まれていく。記憶することと理解することとの違いは、知性を育むか否かにある。知性は情報や知識によって脳に刺激が与えられることによって育まれる。人間をホモ・サピエンス Homo sapiens と特徴づけられたものとして捉えるならば、知性は「人」そのものである。人と人とがつながることでイノベーションが起きるというのは、知性と知性とがつながることで起きるということである。あるいはまた、高度な知性が集合することで、すなわち情報や知識そのものではなく知性の集合した「場」を作ることで、イノベーションは起こりやすくなるのである。ナレッジ・マネジメントはイノベーションをもたらすために生まれたものだが、情報や知識を集めることではなく、知性をマネジメントすることこそが重要である。あるいはまた、「人」のマネジメントこそ重要ということになる。
 インターネットの普及により、我々はいつでも好きな時に様々な情報や知識にアクセスすることが出来るようになった。我々は、質の良し悪しはともかくとして、ほとんど常に情報や知識を得ることが可能である。文字としてのみならず画像や動画でそれらを取得することで、イメージ、心象、ありさまとして脳に刺激が与えられ、より知性が育まれる。言うまでもないことだが、情報や知識にアクセスすることが容易になったため、単に記憶することの重要性は低くなってきている。またインターネットにより知はまさに地球規模で遍在するようになり、広く「人」が育つようになってきた。単位当りの情報の価値は著しく下がってきているが、一方で高度な知識の価値は徐々に上がってきているというのは、それが他社とは区別された「人」の知性に関わるからである。その「人」は各自の経験や関心の赴くところにより、それぞれに特有の知性を育んできた。インターネットは知識や情報の取得という側面を超え、ソーシャルネットワーキングを通して人と人とのつながりをつくり上げるようになっている。ついにはインターネット上の仮想的な「場」で、価値意識を共有する「人」同士の協業が頻繁に生じるようになった。インターネットにより経験が共有されるようになってきた、ということである。経験が共有されると、そこから育まれた共通の観念や信念、あるいは文化のもとで協業がなされるようになるため、イノベーションは実行性を増す。そのような経験の共有の「場」は、より現実の空間に近いものとなっていく。それは仮想現実からより現実的かつ人間的な拡張現実へとシフトしていき、現実と仮想の違いを意識せずともよいところまで進化していくであろう。一方で、人間の脳を模した人間より高度な人工知能が発達し、直接的に人間をサポートするようになる。否、ついにはイノベーションの主体が人間に成り変わるか、さもなければその何かは主体としての人間と融合するのである。単にイノベーションを生じさせることを目的とするならば、その主体は人である必要はあるだろうか。すなわち、イノベーションを何のために生じさせるべきかを深く考えねばならないところに直面しているのである。イノベーションは目的ではなく、価値実現の過程ないし手段であるという原理原則に立ち返らなければならない。もたらすべき価値が何であるかを人間が熟考し、より高次の価値を志向し続けなければならないのである。
(文責:遠藤司)

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 現在沖縄に生息するマングースは20世紀初頭にインドより持ち込まれた。沖縄ではハブによる被害が深刻な問題であり、インドでコブラの天敵として知られるマングースを持ち込むことでハブを退治しようと考えたからである。ご存じのようにマングースはハブを食べるよりもウサギや野鳥、またニワトリのような家畜の方を好んで食べ、沖縄に新たな被害をもたらした。豊富な食料がそこかしこにあるのであれば、敢えて危険を冒す必要などない。この事実の教訓は、一般によく言われているように、自然の法則を理解しないと生態系を壊してしまい、取り返しのつかないことになる、ということである。すべての動物はその根本において生命を維持し、子孫を残すために生きているのであって、水が低きに流れるように、生きるためにより楽な方向があればそちらに流れていくものである。サファリパークではライオンは常に食欲を満たされているため、目の前にいるシマウマを襲わない。抵抗する術のない獣や、アヒルや、ヤンバルクイナのような飛ぶことのできない鳥が目の前にいれば、噛まれて痛い思いをするかもしれないハブの方を好んで食べるようなことは、ハブがマングースにとってよほど美味でない限りはあり得ない。その結果マングースはネズミ算よろしく子孫を増やし、当初は十数匹だったものがこの100年程で数万匹にまで増えた。冗談のような増え方であるが数学的には当然あり得る話であり、事実そうである。人間が物事を為す際に最も重要なのは自然法則の理解であり、自然の流れを掴むことである。あるいはまた、その発見と、現実の社会への適切な形における投入である。思いつきではなく、はたまた造り替えでもない。人間が恣意によって持ち込んだマングースはすでに駆除の対象である。動物の性に背いて人間がコントロールしようなどということはおよそ不可能なのである。
 一方で人間もまた動物であり自然の一つであり、ゆえに同様の性を持つものであろう。人間もまた生きるために楽な方、楽な方へと流れていく性向を持つはずである。毎日仕事をせず、何ら我慢を強いられることなく、好きなものを食べ、好きなだけ遊び、好きなだけ眠ることが出来れば、それは動物としての性に合致した快適な生き方である。しかしながら人間には、生きるために必要な糧を得るために行うためのものである「仕事」を選択するにおいて、やりがいや満足といった、むしろ敢えて困難な方を選ぶような、単に楽であることとは異なる目的を求める性向がある。あるいはまた、より人間としての高みに到りたい、単なる快とは違う人間としての幸福を得たいといった、他の動物にはない欲求を求める性向がある。あまり知られていないことだが、欲求段階説を唱えたマズローは生存の欲求をピラミッドの下位ないし基層部分に置き、自己実現の欲求を上位に置いたが、晩年、もしかしたらそのピラミッドの構図は逆だったのではないかと葛藤している。それほどまでに人間は単に生きることとは異なる欲求を求めるものであり、それが人間たる人間の本性であるし、この現実における事実としてそうなのである。
 人間もまた自然の一つであるが、人間は他の動物とは異なる人間としての人間らしき性を持つ。やりがいや満足は社会における自らの存在価値に依存し、社会に投入される諸価値は社会をより発展させていく。すなわち、人間には社会を発展させるに至る本性というものが存在するのである。人間は他の動物とは異なり、まずもって「人間」にならなければこの人間社会、文化的ないし文明的な人間社会に生きることが出来ない。少なくともこの人間本性を反映し、綿々とした歴史的時間の蓄積のつくり上げた社会においては、動物の分類としてのヒトのままでは人間の生きる道はないのである。そのため「人間になる」ための教育、本来備わるはずの人間本性を育む教育が重要になる。人間が動物の性として楽な方、楽な方へと流れていき、そのままに放っておくのであれば、人は「人間」としては堕落し、力を失っていく。そして人間社会は維持されなくなり、衰退の一途を辿るのみである。それを食い止めるためには、人間は目標を持つとか、なりたい姿を描くとか、使命感を持つとか、あることへの達成感を得るとか、そういった人間らしき様々な欲求を充足させる喜びを知らなければいけないのである。ここで例えば子供はそれを知らないのであるから、大人は教えなければならない。それは文化的・文明的な生において必須である知的継承の最も根幹的な部分であり、人間社会を今後も発展させるための最重要な機能であろう。
 人間は他の動物とは違い「人間になること」から始めなければならない。「人間」たるための教育を経て、動物としてのヒトから「人間」になり、知を受け継ぎ、さらに発展させ、次の「人間」をつくっていかなければならない。人間にとっての自然は「人間になること」であり、この社会を維持・発展させることなのである。
(文責:遠藤司)

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 観念的な話をしたい。とりとめのない話のように思われるかもしれない。しかし観念は現実にもたらされるはずである。
 ある人が何か取組みを行いたいと心から思うとき、その「何か」はその人の意志がもたらした結果である。したがってその「何か」は、意志の行き着く先の道すがらのものでしかない。意志の「何であるか」は、「何か」の集合ないしはプロセスによって定められることだろう。しかし「何か」が集合すれば意志を定めるようになるとは限らない。たまたまそうなることはあるとはいえ、必ずそうなるとは限らないし、ほとんどの場合そうならないといってよい。あることを為すにおいて先行するのは「何であるか」であり、「何か」はその成果物、生成物に過ぎないのである。「何か」は我々の社会に投下された「何であるか」の一つの要素でしかないのである。
 新規ビジネスを創る際にはそこかしこから様々な知識を集めてくるものである。単体・要素としての技術やアイディア、職人的なノウハウ、既存の文化的構造物、新たに生み出されたもの、それらはシュムペーターの言うように新結合し、「何か」を形づくる。人の手によって形づくられたそれはビジネスとなる。しかしそれが成功するか否かは、全くのところ予測し得ない。そうであるから新事業は小さく始めるべきであるとされる。いわゆる市場性があるかどうかを測定するためである。いわば王道で、常識的な、決まりきったこの思考の流れは、創造の本質を突いていないように思われる。なぜなら、「何のために」それを為すのかの観点がそこにはなく、そのため「何であるか」を投影していないからである。あるいは言い換えれば、「どこに至るために」そのビジネスは社会に存在するのか、存在すべきかの観点が欠落しているのである。すなわち、そこには創造者(そのように呼ぶことが適切かどうかはさておき)の意志がなく、せいぜいのところ事業化することが出来るからとか、思いつきが素晴らしいように思われるからとか、野心を叶えられそうだからとか、最悪の場合イノベーションを興さなければいけないと担当者が誰かから要請されたからとか、人間社会のこの現実の表層に存在するものの観点から生じた思考、動機によってそのビジネスは形づくられているのである。そこには創造において本質的なものは何もない。社会において真に意義を持つものではない。
 意志と意思は分けて考えるべきであろう。意志は信念ないし志と同類であり、意思は思考と同類のものである。我々の意思は意志がなくとも成立し得る。意志とは光の指す先を示すもののことである。より適切には、ある人が光と思うものの指す先を示すものである。ゴールが定まっていれば、一つの物事のスタートとエンドは決定されよう。大きな流れの内に今があることを意識できよう。ところでミケランジェロが彫刻する際、彼はそこに存在する大理石がすでにこれから出来上がるであろう彫像を定めていると考えていたという。彼のなす作業は、そこから無駄なものを省くだけである。しかしおそらく大理石は何も語りかけてはこない。彼の目に見えるそれは、彼のイメージの反映に過ぎないのだろう。彼のイメージを形づくるものは、彼が経験的に培ってきた精神的・観念的なものの集合である。イメージはその集合からの発露である。そこには明らかなる光が存在する。大理石から取り出される彫像は彼の心のうちにあるものの投影であり、それはまた意志と同種のものである。違いはそれそのものに信念が存在するか否かに過ぎない。

 敢えて明確な示唆は控えたい。言いたいことは一つである。もたらす世界の絵が何であるかがビジネスの成功を左右するのである。
 (文責:遠藤司)

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 我が国においてユビキタス・コンピューティングは、例えば「いつでもどこでも誰とでも」といった言葉で表現されたものとして捉えられてきたところがある。しかしこの単に「つながる」ことを指す観念はあくまでもユビキタス・ネットワークという限定的な範囲のものであり、下記に記した、この概念の基となる論文を読むならば、より深い意味をもつものであることが分かるはずである。
 すなわちユビキタス・コンピューティングとは、まさに「遍在すること ubiquitous 」を指す観念であり、当初よりそれはコンピューターの存在を意識させず、あまねく社会に広められ、我々の生と同化していくものを示していたことが分かる。生そのものの進化がユビキタス・コンピューティングなのである。必ずしも人間の進歩とは限らないが。
 いま起きていることは、かつて予測されたもの、描かれたものである。我々はそれに追随しているに過ぎない。


「最も深遠なるテクノロジーは隠れゆくテクノロジーである。それらは日々の生活のうちに織り込まれ、そこから区別できないものとなってゆく
The most profound technologies are those that disappear. They weave themselves into the fabric of everyday life until they are indistinguishable from it.

The Computer for the 21st Century
Mark Weiser
https://www.ics.uci.edu/~corps/phaseii/Weiser-Computer21stCentury-SciAm.pdf

 (文責:遠藤司)

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