あるカテゴリーの商品やサービスの満足度を高めることは、顧客と企業をつなぐ一つの最も有力な手段であることは間違いない。しかしそれは、それに競合しうる分野において破壊力なイノベーションがひとたび起きてしまえば、失われゆく市場のなかでパイを取り合うために「比較的」優位である要素の一つでしかなくなる。つまり、ある商品やサービスに対する顧客の満足度は、それが一定の成熟度に達した商品群のなかでは、こと持続的な成長の上ではほとんど意味を為さないのである。なぜなら、実際のところ社会は変化を常態とし、イノベーションはつねに起き続けているからである。
 ある事業ドメインにおいて、イノベーションを興すためにはどうすればよいか。それについて必ずこうすればよいという具体策はそう易々とは見つけられないだろう。作法、仕方、イノベーションの興りやすいケース、おそらくこうであろうと仮に置く法則性、それらに関して前もって言うことは我々にはできようが、どの事業ドメインにおいてもこうすれば必ずイノベーションは興るなどということを保証する法則性ないし抽象的理論は、神でもない限り、否、神でもなお言うことはできないだろう。とはいえ、これは間違いないだろうと言うことの出来る事実がある。それは、顧客の声そのものに固執し、それを商品やサービスの企画のメインに当て込んでいる企業は、最もイノベーションから遠い企業であるということである。
 このようなことを言えば、いまだ我が国の大多数を占めるであろう、それに信条を持って顧客と向き合っている経営者らや、顧客の顕在化したニーズを満たすことこそ最重要事項であると考えている企業からは、強い反論ないし反感、場合によっては侮蔑すら受けることだろう。しかし謗りを受けたとてなお、我が国の未来のために繰り返して言うが、ことイノベーションに関しては、それらはほとんど意味を為さないのである。何故なら、顧客は通常、個々の取引先にアントレプレナーシップを発揮しないし、もし発揮したとしても媒介になっている営業社員はよほど稀な場合を除いてはその本意を理解出来ないからである。そして、もしそれらが商品企画の段階の直前まで運良く生き残ったとしても、他の一般的な改善要望としての顧客の声の山に埋もれ、卓越したアイディアは輝きを失ってしまうのである。
 まだ納得出来ないと感じる読者もいるだろうから、もう少し話を進めよう。私が言いたいのは、ニーズの性質についてである。敢えて単純化して言えば、顧客のニーズには顕在化されたものと潜在的なものがある。顧客の声は前者に分類されるが、これは潜在的なニーズの極々一部が表出されたものであって、場合によっては真のニーズの正反対のものであることすらある。顧客は自らの真に求めることなど把握してはいないし、社会の未来の姿を予言出来もしない。市場を創ることがミッションだとは考えていないのである。フォード社の創業者、ヘンリー・フォード氏は述べる。もし私が顧客に「何が欲しいか?」と尋ねたならば、「速い馬が欲しい」と答えたであろう、と。顧客の声から、自動車は生まれただろうか。あるいは、顧客は一人が一台の自動車を持つ社会の到来を予想出来ただろうか。そしておそらく、そのような社会がいずれ終焉するであろうことも。
 ご存知、アップル社のスティーブ・ジョブズ氏は、自身のイノベーションは顧客の声を聞くことから生まれるのではなく、人々が抱える問題に対して全く新しい考え方の解決手段を提示するという形で表れるものだと説いた。ジョブズ氏は顧客の声を聞かないのではない。単純に声そのものを聞くのではなく、顧客にもっと近づくべきだと言うのである。顧客がいまだ気づいていないニーズを把握し、発掘できるほどに、顧客に密着すべきなのである。マサチューセッツ工科大学教授であるリチャード・レスター氏は『イノベーション―「曖昧さ」との対話による企業革新』において、イノベーションを創出するのは「分析的取り組み」ではなく「解釈的取り組み」であると述べる。顧客の声そのものをどう分析し商品に活かすかではなく、声を自社の統合しうる様々な要素のなかでどう解釈するかに注力すべきだと述べている。「解釈的取り組み」こそ、顧客に密着し、真に向き合っているものだと言えよう。もっといえば、顧客一人一人に密着するのではない。顧客の全体の声ならぬ思い、振る舞い、醸し出す雰囲気の変化を捉え、解釈すべきなのである。すなわち、市場のニーズの変化を捉えるべきなのである。
 顧客の声は、きっかけとして用いることが出来るだけである。顧客の内にある潜在的なニーズを把握しなければならない。そして顧客に向き合うために、ときにはその声を裏切るべきである。イノベーションは顧客の声そのものから生まれるのではなく、社会の変化を捉え、それに誰も考えつかなかった解決法を与えることで生まれるのである。
(文責:遠藤司)

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