「テクノロジー」という言葉を使うとき、我が国では技術的構成物や技術的諸要素のことを指すことが多いように感じる。つまり、テクノロジーが変化したと言うとき、例えばモーターの回転スピードが300%増したとか、通信速度が倍になったとか、テクノロジーのある一部分を指してそれが向上したことをテクノロジーの変化と捉えることが多いように感じるのである。実際に、我が国の企業の技術部門においてテクノロジーを扱う者は、ある要素を捉えてその質を向上させることに従事している者が多い。その結果として、我が国のメーカーはより「よい物」を作り、その質の高さで他の追随を許さないといったことが多くある。しかしながら、技術を用いて全く新たな展開を市場にもたらすということに関しては、さほど強いとは言えないように思われる。すなわち、イノベーションを興すことに関しては、少なくとも現在の我が国は、さほど強いとは言えないだろう。言うまでもなくここでいうイノベーションは、技術革新のことを指すのではない。日本企業は高いレベルでの基礎研究を行っており、新たな「技術」に目を向け、かつそれを生み出している。紛れもなく我が国は「技術」大国である。そういうことを言うのではなく、テクノロジーによって人々の生活のある側面を抜本的に変え、それが社会の潮流になるといった意味でのイノベーションを興すことに関しては、不得手だと言いたいのである。
 その原因の一つは、テクノロジーをコンセプトの中に落とし込めていないことにある。そもそもから言えば「テクノロジー」という言葉はギリシャ語の「テクネー」と「ロゴス」という言葉から派生したものであり、前者は「人工のもの」、後者は論理、思想、コンセプトといったもののことを指す。つまりは、人間の作るものであるところのコンセプトを指すものといった側面の強かったテクノロジーという言葉に関して、我が国ではそのコンセプトの部分が抜け落ち、その後に生まれてくるところの「人工のもの」そのもの、すなわち生成物の周辺を指すことが多いと言いたいのである。イノベーションはほとんどの場合、コンセプトから生まれる。従来のものとは全く別物とすら言えるほどの卓越した技術の出現がきっかけとなってイノベーションが興ることもあるが、その技術もまた、どのようなかたちで市場にもたらすかを考えなければ、市場価値的には眠ったままである。言い換えれば、卓越した新技術そのものは、いまだ我々に何ももたらしてはいないのである。何かの働きによる結果として社会に提示される何らかのコンセプト、あるいは未来ビジョンがあり、それを実現するための「技術」力が追い付くことで、社会は次のステージに至るのである。我が国の多くの企業の事業企画部門や技術企画部門の発想は逆で、いま持っている「技術」を用いて、いま市場にあるコンセプトのなかでどのようなプレゼンスを出せるのかを考えていることが多い。この発想ではイノベーションを興すのは難しいことを、ここで改めて指摘したい。ピーター・F・ドラッカーが「すでに起こった未来」という言葉を使うとき、「いま起きているもの」がどのような流れの中にあるのかを見極めるべきであるというコンテクストの中で用いられていることに読者は気付くだろう。ここでいう「流れ」とは、どこに至るものであるかを言うものであり、そうした観点から生じるのがコンセプトである。まずもって「流れ」のなかでコンセプトを見出すこと、過去から現在、そしてこの先につながる未来の「絵」を描くことが、イノベーションを適切に起こすための近道なのである。
 ところで、かねて伝えてきたように現在の社会は情報化社会であり、「情報革命」が「すでに起こった未来」の社会である。ここでは新たに様々なコンセプト(かつてあったコンセプトのモディファイも含め)が生まれ、それによってテクノロジーの方向性が決められる。必要とされる生成物としての技術、あるいはそれを生むための知識の種類は急速に変化する。かつてあったコンセプトは陳腐化し、新たなコンセプトによるものとしての新たな市場が次々と生まれてくる。産業のかたちも休みなく変化し、旧来の考え方や戦い方ではもはや市場には合致しなくなる。企業は「すでに起こった未来」を捉え、常に変化し続けなければならないのである。それを認識してもなお、変化に対応できない企業は存在するだろう。そういった企業は存在価値を失い、新たなコンセプトにおいて活躍できる企業にとって代わられることになる。淘汰され、すでに存在しなくなった企業にいた「技術」者は、市場にあぶれることになるだろう。しかしながら新たなコンセプトにも適応できる知識やスキルを身に着けてきた技術者は、すぐに新たなコンセプトを持つ企業の中で活躍をすることが出来よう。市場価値が高いからである。失業状態が続く者は、変化する社会の中で自らの価値をどのようにもたらすかを考えてこなかった者、ということになるのである。すなわち、技術者は、どうすれば自らの存在価値が最も高まるか、どこでならばそれが出来るかなどについて真剣に考えなければならなくなったのである。製品やサービスの盛衰のスピードが増した現在の社会において、新たに台頭するであろう製品やサービスの領域を常に見極め、そこに参画できるよう自らを変化させなければならないのである。
 我が国の企業における雇用の考え方は硬直的である。人事規定が企業の成長を阻めている例は、多くの企業にみられる。テクノロジーを扱う者が次なる社会においても戦うことが出来るよう、企業内で人材戦略を練り直さなければならない。国家においても同様であり、保護の名のもとに制定された我が国の雇用における法規制の存在が、企業間の人材の流動性を阻め、優れた人材を適切な場所に置くことを抑制し、技術者の、企業の、ひいては国家の成長を阻めている。いらない人材を切り捨ててもよいようにすべきと言っているのではない。大切なのは、人が自らの力を存分に発揮できるような仕組みづくりである。そのために、適材適所の観点から外れる法や制度は変えていかなければならない。成長戦略においては、成長を支える人材をどうマネジメントするかの観点が欠かせない。目指さなければならないのは世界で戦える国家であり、それを可能とする人材の育成である。いまこそ雇用の流動性を加速させなければならないのである。
(文責:遠藤司)

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