テクノロジーの発展は想像から始まる場合も多い。ある将来ビジョンを思い描いたときに、そこに至るためにはどのような技術が足りないか、あるいはある技術を如何に伸ばしていくべきかというように、そのビジョンに向けた筋道を描くことが出来、今やるべきことは何かを明らかにすることが出来る。もちろん最初のビジョンが誤っていれば思い描いた未来が訪れることはないだろう。したがって我々は、より起こりそうな将来ビジョンを描くために、人間本性やものの理を正しく把握し、過去から現在に至る大きな流れを理解し、そして次に何か起こるかを予測するという作業を行わなければならない。描かれた将来ビジョンは全くのところ実現される保証はない。我々に出来ることはすでに起きたことや起こりつつあることを捉えること、すなわち「少し先の未来」を捉えることだけなのである。ウィリアム・ギブソンの言うように「未来はすでにここにある。行き渡っていないだけなのである。」しかしながら、それでもなおビジョンを描くことは重要である。そのビジョンを実現させるためというよりは、テクノロジーの発展を促すために、それは重要なのである。新たに生まれた技術は、もしかしたら予期せぬ技術かもしれない。それは場合によっては描かれた将来ビジョンを否定することになる。しかし、すでに生じた変化によっておそらく到るであろう未来からは逃れることは出来ない。出来るのはせいぜい遅らせることだけである。人間が自然から発見した法則性を「かたち」にしたものである技術は、ある者にとっては都合が悪いからと利用されなかったとて、別の者にとっては機会と捉えられ活用されることだろう。かくして大きな自然の土台の上に構築されてきた文明のかたちは、常に変化していくのである。
 ところで我々にとって必ずしも幸福な未来が訪れるとは限らない。この世の常態である変化は、多かれ少なかれ我々の現在の姿の否定の要素を含む。生まれてしまったものは、常に我々にとっての脅威の側面を持つのである。例えば人工知能(AI)である。我々人間よりも思考力の高いコンピューターは、いくらかの時間があれば出来上がることだろう。すでに記憶の領域は言うまでもなく、チェスや将棋といった分析的思考を行う領域でもコンピューターは人間を打ち負かしつつあるし、大学の論文試験の善し悪しを判断するといった事例も存在する。これはパターン的、対応的なストラテジーを主とする分野においてはいかに戦い方などの方法を知っているか、つまり経験がものをいい、その知っているものの中で最良と思われるものを選択することがとりわけ重要だからである。かつてデイビッド・ヒュームは経験とは知覚の束であると説いたが、近年の人工知能の発展はそれを証明しつつある。ここで、おそらく単純な経験とは切り離されるであろうものがある。すなわち、かつて経験されたことのないものを生み出す力、人間の創造力である。しかし創造がコンピューターには行うことが出来ないとは必ずしも言い切れない。我々人間のもつ創造力は、おそらくかつてインプットしてきた情報が脳内で何らかの形で結合し、別のものとなってアウトプットされたものだからである。すでに1999年に、正しいかどうかはさておき、コンピューターが人間よりも優れた創造力を発揮したことを示すある研究論文が存在する。そうであるならば、人間の生み出したコンピューターはやがて人間を凌駕することになるかもしれない。我々の本分を奪うことになるかもしれないのである。
 必要は発明の母である。何が言いたかったかといえば、我々は我々自身の存在意義を守る必要があり、そのためにどうするかを考えなければならないのである。すなわち、すでに起きた変化や起こりつつある変化に対応することとは、ここでは人間が自らを守るために何らかの形でコンピューターに打ち勝つことなのである。それが我々が描かなければならないビジョンの一つであろう。ウェアラブル・スマートはその一つの解を提供している。それは我々はコンピューターに打ち勝つために、コンピューターの力を利用すべきだという解である。我々自身がより高度にスマートにならなければ、コンピューターには勝てないのである。いまは人間とは独立して手の中にあるスマートデバイスは、ウェアラブルなものとなり、ついには我々と何らかのかたちで一体化することだろう。すでに到来した知識社会は新たな様相を迎えつつある。それはより発展した知識社会、あるいは全く別の呼び名で呼ばれるべきものかもしれない。
 繰り返すが、起きてしまった変化からは逃れることは出来ない。我々は、守らなければならないものを守るために、変化に対応し、順応しなければならないのである。
(文責:遠藤司)

http://facebook.com/project.hypnos