自然に存在する様々な法則性それ自体を自らのものとするためにその法則性を次々と発見しようとするところに、種としての人間の特性はある。
 おそらくはじめは単にそこに落ちているものを手にしただけであった。雀が落ちているものを食べるように、人間も単に目の前にある果実をもぎとって食べることに専念していたはずである。生きるということは、初めから今に至るまで、すべての生物にとって、「自然」のなかに生きるということである。しかしながら、単に生きること、すなわち獣と区別されない単に生きることと、人間が人間らしく生きることとの間には、何らかの相違があるはずである。生きるということの意味とか本質とか、あるいは人間の生きるということの表す姿といったものは、その自然本性の向かうところに従って変わっていったはずである。
 道具という概念はいつ生まれたのだろうか。自然の内に落ちていたものを人間の解釈のもとに道具として利用することによって、多少なりとも自らの、あるいは自らの所属する集団の生の力を高められることを人間は知った。そして人間はより強い力を持つために、自然のものを加工し始めたのである。加工を日常的に行うようになった人間は、何かの拍子で自然の法則を、すなわち火とか水とか土とか、そういったものの「作用」を利用して、より力を持つようになった。加工して利用することとは、この世の法則性から使えるものは何かを捉え、理解し、現実のなかに落とし込むことであると知ったのである。自然法則あるいは自然の作用を利用する傾向がより広がりをもち、そしてもっと真に利用するための深い洞察がなされるようになると、いつしかそれは科学となった。科学こそ、文明に生きる人間を「人間」たらしめるものである。科学は伝聞によって人から人に受け継がれていくことで、それが成立してから常に発展していった。すなわち、継承なくして科学は成立しないのである。
 しかし伝言ゲームが徐々に誤っていき、ついには全く異なったものとなるように、科学もまた疑似科学を生んだ。その誕生はほとんどの人間が多かれ少なかれ持つであろう理性に起因するものである。つまりあるものに対して常に問いを投げかける人間の卓越性こそが、本来的(自然的)には認められるはずのない疑似科学を生んだのである。しかし疑似科学、すなわち自然に対する誤った解釈は、何が自然に合致しているかに関する見解が様々に存在するがために、容易には覆されることはない。少しでも知り、考えれば、明らかに誤っていることが「分かる」はずのものも、理性、論理といったものの働き(フィルター)によって、そうではないと錯覚させる。人間の特性としての理性は、人間を正しく導くとは限らないのである。それに加えて厄介なのは、この現実の社会、人為によってつくられてきた現実の社会は、必ずしも自然において真であるものの集合、連関ではないことである。それは社会的でありながら理性的な動物でもある人間の営みによって、自然的なものと人為的なものとの融合によって出来たものである。それゆえこれまでに最も成功した科学は数学であり、次に成功したものは物理学(Physics)なのであろう。なぜならそれらは、現実社会とはさほど関係のないところにある現実の、すなわち自然の法則を探る人間の活動、まさしく科学だからである。しかしながら、現実の社会のあるべき姿は、それがいかに成功する見込みがないとしても、つねに誰かによって考えられていなければならない。なぜなら我々はこの現実の社会のうちに生きており、生活をしているのであり、正しいかどうかはともかくとしてその秩序を自らの生と合致させているからである。社会のあるべき姿は、常に考えられていなければならず、そしてその考えは競合していなければならないのである。

 言いたいことは山ほどあるが、きりがないのでここで終わることにしよう。これらは少なくとも経営者が、本質か否定すべきものかはともかくとて、前もって理解していなければならないものである。すなわち、我々は自然のものやその法則性から加工することで出来上がった様々な構成要素を、現実の中にどのようにもたらすかを考案することをビジネスと呼び、多くの場合にその主体となるものが企業であることを常に念頭に置いておかなければならないのである。これらの本質に至らんとする働きがないからこそ、ビジネスは生まれないのである。すなわち、イノベーションには哲学が、経営哲学が、真なるものを理解しようとする試みが、そして過去から未来に至る継承という観念こそが必要なのである。これらの理解なき、恣意的な、ドラッカーの言葉を借りるならばアイディア・イノベーションなどは、その成功確率の低さからイノベーションの機会のうちに数えることすら相応しくないのである。ところで一橋大学の楠木教授は、明示的ではないとはいえこれらの理解を「センス」と呼び、本心か揶揄かはさておき、それがないならば諦めよと述べた。スキルは努力で身に付けられるが「センス」は必ずしも身に付けられるものではなく、つまり育てられず育つものであり、従って経営者はそれがないならば諦めるしかないというのである。しかし彼の言うところの「センス」は、我々においては全くのところ諦めるべき対象ではなく、むしろ育成すべきものである。すなわちその「センス」なるものは、第一に知がもたらすものであり、知こそ知性と感性を、つまり彼のいう「センス」を生み出す素材であり、その素材は育てられるのである。そしてそれらこそ、この現実にもたらさなければならないものなのである。そうでなければ現実社会の一部分を正しくあらんとするための経営学という科学は、何の価値が、あるいは何の本質があるのだろうか。
(文責:遠藤司)

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